土佐史の人々-中期-
- 土佐史の人々
中期
法雲院 (ほううんいん 不詳~1678)
寛文8(1668)年2月、右大臣三条公富の娘法雲院は山内豊昌(とよまさ)(4代藩主)の継室として江戸へ輿入れした。 幕府は大名と公家(朝廷)との接近を嫌い、大名が京都に入る事を制限したが、上流公家である三条氏と縁戚関係が成立してからの土佐藩主は、参勤交代の際に度々京都に立ち寄る事ができた。
幕末には、10代藩主豊策(とよかず)の娘が尊皇攘夷派の公家として名高い三条実万(さねつむ)へ嫁ぎ、15代藩主豊信(とよしげ)(容堂)が実万の養女を正室に迎えるなど、三条氏との縁戚関係が更に強まっている。 法雲院から始まった三条氏と山内氏との関係は、維新期の土佐藩の動向に影響を与えたと考えられる。山内大膳亮豊明 (やまうちだいぜんのすけとよあきら 1642~1704)
中村支藩3代藩主。中村支藩初代忠直(ただなお)の次男。 元禄2(1689)年には奥詰衆に、同年5月には若年寄に命じられているが、病気により辞退したため、逼塞を命じられ、所領は嫡子豊次(とよつぐ)を譲ることを許された。
しかし、同時期に豊次が死去していたため二万七千石は没収され、旧領三千石の安堵と寄合旗本並に拝謁することを仰せつけられたが、これに対しての礼、さらに将軍に対して旧領安堵を許されたことの礼を述べなかったため、「不敬の至」として、所領をすべて没収され、浜松藩主青山下野守忠重にお預けとなり、ここに中村支藩は断絶することとなった。
この後、元禄5(1692)年に許され、高知で屋敷を構え居住した。 没収された中村三万石は幕領となっていたが、元禄9(1696)年に土佐藩に戻されている。千屋半兵衛政富 (ちやはんべえまさとみ 不詳~1723)
千屋氏は、香我美郡大忍庄福萬村(香南市香我美町福万)の開発領主で、そもそもは福萬氏と称していた。 『長宗我部地検帳』には六町ほどの領地を有する一領具足として福萬孫右衛門が登録されている。元親・盛親に仕えた彼は長宗我部氏改易後も牢人として同村にあったが、孫の代に千屋と改姓、慶安3(1650)年に2代藩主忠義に歩行として召し抱えられた。 それが半兵衛政冨である。
歩行として彼が担当した職は御庭方御用であったが、国絵図作成の下役など、現場に近い場所で様々な職掌をこなしていたためか、政冨は元禄4(1691)年に留守居組に昇格、所謂「上士」扱いとなる。 更に同10年には、新小姓にまで昇格した。 以後、千屋氏歴代は、留守居組か新小姓のいずれかの格式が認められた。山内(深尾)規重 (やまうち(ふかお)のりしげ 1682~1721)
深尾家の分家である東家の出身で、父は家老山内重直。 「山内」の称号を許可された。 5代藩主豊房(とよふさ)(1672~1706)から近習家老に抜擢されて、豊房の行った藩政改革を支えた。
6代藩主豊隆(とよたか)(1673~1720)の代では、宝永4(1707)年の大地震被害の復興策をめぐる意見の対立や、地震の影響で幕府から参勤交代を免除されながら、母親の看病目的で江戸へ強行しようとした豊隆を諫止したことから、豊隆と対立し、宝永7年に罷免。 一度は許されたものの、正徳元(1711)年に深尾・孕石(はらみいし)両家の婚姻を豊隆が気に入らず、連座という形で土佐国香美郡山北村(現香南市)に幽閉された。
豊隆の死後豊常(1711~25)が七代藩主となると、規重は名誉を回復されて藩主補佐役となった。のちに規重の子市正が豊常の跡を継いで8代藩主豊敷(とよのぶ)となった。森田久右衛門 (もりたきゅうえもん 1641~1715)
藩窯尾戸焼の初代焼物師。 2代藩主忠義は産業振興策の一環として藩窯創設を図り、承応2(1653)年、大坂から陶工久野正伯(くのしょうはく)を招いて、城北尾戸の地に窯を築かせた。 久右衛門は、山崎平内(へいない)とともに正伯の弟子となり、やがて3人扶持をもって藩に召し抱えられた。 延宝6(1678)年には4代藩主豊昌によって江戸へ呼び寄せられ、大老酒井忠利を始め幕府要人や茶人の前で作陶の披露を行った。 彼の日記「森田久右衛門日記」には、轆轤(ろくろ)を自在に操って客の好みに即座に応じる様子が活写されている。 またこの日記の前半部分、出府の途上で立ち寄った各地の窯に関する見聞は、江戸前期窯業の貴重な記録として名高い。
広瀬実常 (ひろせさねつね 1640~1715)
北条流の軍学者。 貞享3(1686)年、山内家が初めて召し抱えた軍学者宍戸勘左衛門(北条氏長の高弟福島伝兵衛国隆の門人)が病死、新たに北条家に推薦を求めて召し抱えたのが実常である。
実常の父実義は加藤清正に仕えていたが、加藤家の断絶後、浪人となり江戸に出ていた。 実常は福島国隆の高弟として松宮観山と並び称され、国隆亡き後は門人の指導にあたっていたが、元禄4(1691)年、50人扶持で土佐藩に召し抱えられた。 その後相次いで加増を受け、元禄15年には知行千石、中老職に昇った。 著書に「足軽百条図解」「国司郡司人数持大将可心得条々」などがある。 広瀬家は以後代々江戸で軍学を学び、7代伝太夫実美(さねきよ)に至り、明治維新を迎えている。谷丹四郎垣守 (たにたんしろうかきもり 1698~1752)
谷垣守(通称丹四郎)は、土佐南学派の祖である谷秦山の長子として、元禄11(1698)年に城下北部の秦泉寺村に生まれ、儒学や国学など幅広く学問を修めた。
父秦山は、6代藩主豊隆襲封の時におきた政変に連座して、山田村(現土佐山田町)へ蟄居の処分を受けた。 しかしその後も死ぬまで門人や自分の子息たちに教授を続けた。
父が逝去して7年後の享保9(1724)年、垣守は他国遊学が認められ、玉木葦斎や賀茂真淵など、全国の第一線で活躍する学者に師事し、国学と神道を中心に学問を続けた。
その結果、後の垣守の学問は、儒学を機軸とした父の学風に加え、国学を追求して新しい境地が加わり、この学風が実子真潮に受け継がれた。川谷薊山 (かわたにけいざん 1706~69)
18世紀に活躍した暦学者。 宝永3(1706)年、奉行方留書を勤める少禄の藩士の家に生まれ、藩儒谷垣守(たにかきもり)について天文暦学、神道、朱子学を学び、元文3(1738)年江戸に出て算学を究めた。
帰藩後は留守居組の勤めをしながらも塾を開き多くの門人に算学や暦学を教え、自らも天体観測を続けた。 そんな中、薊山は宝暦13(1763)年に幕府天文方も予報しえなかった部分日蝕を推算した。 当時日蝕は凶兆としてとらえ朝廷内では祈祷なども行われていた。
この予報は推算通りに的中し、その結果薊山の名は全国に知られることとなった。 当時の藩主豊敷(1712~67)は翌年春に薊山を高知城三ノ丸に召し、対面して天文測器を見ながら予報の詳細を尋ね感賞したという。