土佐史の人々-後期-
- 土佐史の人々
後期
宮地太仲 (みやじたいちゅう 1769~1842)
安芸郡田野の芝生まれ。 父の文仲を継いで医を志し、大坂にでて医学を岡慈庵に、経書を篠崎小竹(儒学者、漢詩人)に学び、帰国後は藩の診療を度々勤めて徒士格二人扶持を受ける。 また、天保11(1840)年には土佐における最初の木版農書である『農家須知』を出版しており、農学者としても知られる。
太仲は医学・農学・漢学にとどまらず、書画・茶道・俳諧にも長じ、美濃派俳諧の重鎮でもあった。 俳諧同好会の双松庵を組織し、田野の福田寺に芭蕉の句碑を建てている。黒田長元(山内豊幹) (くろだながもと) 1812~1867)
長元は元の名を山内豊幹といい、文化9(1812)年、10代藩主豊策(とよかず)の七男として土佐に生まれた。 文政11(1828)年12月、筑前秋月藩主九代黒田長韶(ながつぐ)の養嗣子となり、名を長元と改める。 天保元(1830)年5月には長韶の三女慶姫と結婚。 同年10月、長韶の隠居に伴い10代藩主に襲封、12月には従五位下甲斐守に叙任された。
御座船を建造して参勤交代を陸路から海路へ変更、秋月藩の経済を支配していた本藩福岡藩の在郷町に対抗して小杉新町を建設するなど、三男長義に家督を譲るまでの30年間藩政をみた。 慶応3(1867)年10月20日死去。秋月の古心寺に夫人と共に同じ墓に葬られている。山内候子 (やまうちときこ 1809~1880)
13代藩主豊凞(とよてる)の夫人(結婚前は祝子)。 薩摩藩主島津斉興(なりおき)の娘で、島津斉彬(なりあきら)の妹にあたる。 天保2(1831)年に婚儀をあげ、一男一女をもうけたがともに夭折、嘉永元(1848)年に豊凞が死去すると、智鏡院後華常候と号し江戸築地屋敷に起居した。 豊凞・豊惇(とよあつ)の2代にわたる藩主急死による御家断絶の危機を救ったのが、候子が作った薩摩藩主島津家との人脈であった。 賢明の聞こえ高く、文学に長けていたといわれている。
文久2(1862)年の参勤交代制度の緩和により、翌3年に土佐へ下国して藩校教授館跡に作られた追手弘小路屋敷で暮らしたが、維新後に再び上京、年間2000石の扶持を受けて、箱崎邸内に設けられた中御殿にて暮らした。