城博コラム
城博コラム

城博コラム

土佐史の人々-幕末維新期-

2019.11.27
  • 土佐史の人々

幕末維新期

諒鏡院 (りょうきょういん 1841~1916)

 土佐12代藩主山内豊資(とよすけ)の娘。 名を悦姫といい、生後まもなく出羽秋田藩10代藩主佐竹義厚(よしひろ)の嗣子義睦(よしちか)と婚約し、安政4(1857)年4月義睦のもとへ輿入れしたが、結婚後数ヶ月で夫義睦が死去するという不幸に見舞われた。
 夫死後の諒鏡院は、佐竹家にとどまり、和歌を詠んだり書を嗜むなど様々な趣味に生きたと言われている。 また、その聡明さから実家の山内家でも頼りとされ、特に弟の豊範(とよのり)(最後の土佐藩主)死後の山内家では、若い当主豊景(とよかげ)の支えになったと言われている。

谷干城 (たにたてき 1837~1911)

 幕末の尊王攘夷運動、戊辰戦争への従軍、西南戦争での活躍で有名な軍人政治家。 また土佐藩儒家としても鋭敏な感性の持ち主であった。
 明治3(1870)年2月、知事府は各局司に対して、朝廷関係および旧藩内の金穀などの出納関係帳簿などを除いて、公文書をすべて焼却・破棄するよう通達を出した。 この通達に触れた谷は、記録の選別・破棄は記録方役所の役目であるとし、土佐藩史編纂に必要な公文書が、無秩序に破棄されることに対して、憤慨を露わにしている(『山内資料館目録』解題・『豊範公紀』など参照)。

河田小龍 (かわだしょうりょう 1824~1898)

 文政7(1824)年、高知城下浦戸町(現在は高知市)の船役人の家に生まれた。 狩野派と文人画を修め、人物画・山水画・記録画を硬軟自在に描き分ける画家として世に知られる。 その一方、学問や書にも親しみ、知識人としても有名。
 嘉永5(1852)年7月、小龍は、アメリカから帰国した中浜万次郎の取調べを担当した時の内容を『漂巽記略(ひょうそんきりゃく)』としてまとめ、15代藩主豊信(とよしげ)(容堂)に献上した。 小龍はこれを契機に対外情勢や洋学の知識を求める者たちとの交流をもつようになる。 西洋事情を坂本龍馬に伝えたのも彼といわれ、安政の地震後、龍馬が高知市築屋敷の仮宅に訪ねたエピソードなどを『藤陰略話(とういんりゃくわ)』と題した著書に残している。

佐々木高行 (ささきたかゆき 1830~1910)

 天保元(1830)年10月12日生まれ、吾川郡瀬戸村(現高知市長浜)出身。父は100石を給される土佐藩士で、扈従組(こしょうぐみ)に属していた。
 幕末期、海防問題が浮上すると、早くから西洋兵制への転換を主張し、軍政改革に向けて尽力。 また早くから上士尊攘派として奔走している。 保守派の反対で何度も排斥されるが、時局が勤王に傾くに従って次第に藩政に参画し、大政奉還を藩論とすべく活動すると同時に、武力倒幕派との仲介役も務めた。 戊辰戦争が勃発すると、海援隊を指揮して長崎奉行を接収する等、軍功もあげている。
 維新後は明治政府に出仕し、諸役を歴任。 岩倉遣欧使節団に随行し、外遊して得た知識を活かして特に司法の分野で活躍した。

細川潤次郎 (ほそかわじゅんじろう 1834~1923)

 天保5(1834)年、土佐藩の儒学者細川清斉の次男として高知城下に生まれる。
 儒学を修めた後、長崎・江戸に渡り、兵学・砲術・航海術・英語をそれぞれ学び、帰国後は藩校文武館の蕃書(ばんしょ)教授を務める他、藩政改革にも参画し、海軍の充実に努めた。
 維新後は新政府の官僚として刑法草案・会社条例編纂などの法整備や、皇太子の教育補導、女子高等師範学校の校長など教育にも尽力。 その功により明治33(1900)年に男爵を、同42(1909)年には文学博士を授けられている。
 15代藩主山内豊信(容堂)の侍読を務めるなど山内家との関係も深い。 古美術品保護を目的の一つとしていた観古美術会に「古今和歌集高野切本」を出品した際の関係文書には潤次郎の名が見え、廃藩置県後も山内家との関係が続いていたことを窺わせる。

中浜万次郎 (なかはままんじろう 1827~1898)

 幡多郡中ノ浜(現土佐清水市)で漁師の子として生まれる。 15歳の時に漁に出て時化に遭い漂流。 米国捕鯨船に助けられ、10年間におよぶ米国滞在中に英語や遠洋航海術・捕鯨術等を習得した。 帰国後、城下へ招かれて藩士に取り立てられ、藩校で語学・航海術などの指導にあたる。
 ペリー来航後は直ちに幕府から江戸へ呼び寄せられ、老中首座阿部正弘ら幕閣や通詞・洋学者達の情報源となるほか、咸臨丸(かんりんまる)の造船や航海術指導にもあたった。
 嘉永7(1854)年の日米和親条約調印にあたっては、外交文書の翻訳を行い、交渉の席を陰で支える。 さらに安政7(1860)年、条約批准のため渡米する使節団に随行して咸臨丸の操船補助や通訳、現地案内人をつとめた。

山内豊積 (やまうちとよつみ 1834~1894)

 豊積は天保5(1834)年11月9日、分家南御屋敷初代豊著(とよあきら)の三男として高知城下に生まれた。 異母兄豊信(容堂)が15代藩主になると、その跡を継ぎ南御屋敷嫡子となった。 文久3(1863)年以降は、度々上京しては、守護兵御用・清和門警衛・禁門守護等を勤め、容堂や豊範の名代として活躍した。
 維新後は、山内家が設置した海南学校の惣宰を勤め、明治19(1886)年、最後の藩主豊範の死去に際しては、家政監督として山内家経済の引き締めにあたった。 同22年、男爵を授けられる。 同27年12月4日、高知において死去。 享年61歳。

後藤象二郎 (ごとうしょうじろう 1838~1897)

 吉田東洋の義理の甥。高知城下片町(現与力町)の馬廻の家に生まれる。
 嘉永2(1849)年跡目を相続、東洋の抜擢により安政6(1859)年幡多郡奉行となったのを出発点に、海防・軍事関係の要職を歴任。 文久3(1863)年江戸開成館で航海学・洋学を学び帰国すると、さらに重職を任されるようになる。
 慶応2(1866)年、土佐藩で開成館が設立されるとその責任者に就任、軍隊の洋式化や専売制による国力充実につとめた。 その後、後藤は蒸気船購入のため赴いた長崎で坂本龍馬から「船中八策」を授かりその策を容堂へ進言、大政奉還建白へとつなげ、その後も倒幕派と対抗する容堂の右腕として大いに働いた。 維新後は明治新政府に徴せられ、容堂の元を離れて政治家として活躍したが、藩政期のことは多くを語らなかったという。