土佐藩の歴史-中期-
- 土佐藩の歴史
中期の土佐藩
安定期に入った土佐藩は、法の整備を進めるとともに産業の育成にもつとめます。しかし大地震や数度にわたる火災・飢饉などの災害が相次ぎ、藩は財政難に陥ります。そこで倹約令等により打開策を模索しますが、中期の華美な風潮もあり状況の好転には至りませんでした。
主な事件
・中村支藩の成立と改易
幡多郡の中心地である中村は入国時から重視され、一豊の実弟康豊が2万石の領地を任されていました。康豊の子である忠義が2代藩主となったため一度途絶えますが、忠義の隠居を機に二男忠直へ3万石の領地を与え、中村支藩として分家・独立しました。
しかし元禄2年(1689)、3代豊明が将軍綱吉の怒りを買い改易処分となります。中村は
一時幕府の預地となりましたが、最終的には土佐藩の直轄領に戻され、以後中村には幡多郡奉行が置かれました。・「元禄大定目」の制定
体制の安定と共に、藩法の整備も進められます。元禄3年(1690)3月、4代藩主豊昌の時に制定された「元禄大定目」は、徳川幕府の法令を元に、これまで藩が発布した法令を再編して3巻570条余りにまとめたものでした。以後幕末まで、この定目に追加する形で運用されました。
・御蔵紙・平紙の制
慢性的に続く藩の財政難への対策として、正徳4年(1714)土佐の特産品である紙の専売制を導入します。初め一定量の楮を生産地から買い上げる御蔵紙制が採用され、やがて一般に流通する平紙にも規制を加えるようになりました。しかしこれには農民の反発も強く、宝暦・天明期には専売制に反対する百姓一揆が起きました。
・相次ぐ災害―宝永地震と高知城焼失・再建
享保の大火で高知城は追手門など一部を残して全焼、再建には24年の歳月を要しました。また宝永4年(1707)に起きた宝永地震では、土佐は津波により甚大な被害を受けました。
徳川家綱領知判物
中村3万石を山内修理大夫忠直へ分け与える旨の記載がある。