城博コラム
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土佐藩の歴史-後期-

2019.11.27
  • 土佐藩の歴史

後期の土佐藩

中期で試みた諸政策も財政難を好転させることはできず、その後も相次ぐ災害や幕府から課された普請役などが藩財政への大きな負担となります。その中で領民の強訴や逃散へ対応しながら藩政改革に取り組み、綱紀粛正につとめ、藩士の教育にも力を入れました。

主な事件

・繰り返される藩政改革

困窮した藩財政を立て直すため、9代藩主豊雍は一時的に土佐藩の格式を本来の20万石から10万石の格式に下げることを願い出ます。これにより石高に応じて定められる幕府からの負担を軽減させ、内向きには家臣知行を借り上げる政策も行い、財政の建て直しを図りました。
その後の藩主も倹約と砂糖・樟脳(しょうのう)など産業の育成を進めますが、若くして没する藩主も多く、改革の成果は思うようにはあがりませんでした。

・学問・文化の成熟

藩士の教育を目的として宝暦10年(1760)に藩校「教授館」が設立されて以来、儒学を中心とする学問が奨励されました。教授館の総裁に就任した山内家分家・東邸の当主豊栄(とよよし)は、自宅で定期的に読書会を始めとする様々な催しを開き、藩校の教授達も漢詩会などを行って文化的な交流が盛んに行われました。
こうした文化活動は武士に限らず、僧侶や有力商人、庄屋など幅広い層が加わり、土佐の文化に幅と厚みを持たせました。


雅俗太平楽
江戸後期に土佐で活躍した文化人たちが描かれる。